マイナー通貨とは何か?

水野 良(みずの りょう、1963年7月13日 - )は、アニメ化された『ロードス島戦記』や『魔法戦士リウイ』で知られる作家・ゲームデザイナーである。 大阪府出身、A型。立命館大学法学部卒業。兄弟に2つ上の兄がいる。 経歴 大学在学中からRPGに関心を持ち、やがてグループSNEの設立(1987年)に参加することになる。1997年に独立し、現在は同社社友。 『コンプティーク』誌で連載された、『ロードス島戦記』のリプレイを小説化した『ロードス島戦記 灰色の魔女』で小説家としてのデビューを飾る。本書は通算100万部以上売れるいわゆるミリオンセラーとなっており、ライトノベル分野におけるファンタジーの地位を確立する牽引役の一つとなったと考えられる。 『ロードス島』だけではなく、グループSNEが小説・ゲームの舞台として展開しているフォーセリア世界の設定においても大きな役割を占めている。 ブロッコリー社の作品『ギャラクシーエンジェル』の総監修を行う傍ら、2005年8月5日からはラジオ番組『水野良Produce りょーことゆーなの G☆A☆』(ラジオ関西/音泉・放送終了)にてレギュラー出演。 ソード・ワールドRPGリプレイ第3部ではプレイヤーとして参加していたとされており(プレイヤーキャラクターの1人『白いダークエルフ』ことスイフリーは「水野良→水 / 野良→スイ(水)フリー(野良)」という命名方法であるらしい)、『ソード・ワールドRPG 完全版』でのルール変更の一因を作っている。 宮沢賢治(宮澤賢治)(みやざわ けんじ、1896年8月27日 (戸籍上は1896年8月1日)- 1933年9月21日)は、日本の詩人・童話作家・農業指導家・教育者。 郷土岩手の地を深く愛し、作品中に登場する架空の地名、理想郷を「岩手(いはて)」をエスペラント風にしたイーハトヴ(Ihatov)(イーハトーブあるいはイーハトーヴォ(Ihatovo)等とも)と名づけた。 その空前・独特の魅力にあふれた作品群によって没後世評が急速に高まり国民的作家とされるようになった。 年譜 宮沢 賢治 生家跡 羅須地人協会に使われた建物 (花巻農業高校内)明治29年(1896年)8月27日 、岩手県稗貫郡里川口村(のちに花巻川口町から花巻町を経て、現・花巻市)に質・古着商の宮澤政次郎(1874年 - 1957年)とイチ(1877年 - 1963年)の長男として生まれ、戸籍の届出は1896年8月1日付けでなされた。 浄土真宗門徒である父祖伝来の濃密な仏教信仰の中で育つ。弟に清六(1904年 - 2001年)、妹にトシ(1898年 -1922年)、シゲ(1901年-1987年)、クニ(1907年 - 1981年)がいる。 質店の息子であった賢治は農民が冷害などによる凶作で生活が困窮するたびに家財道具などを売って当座の生活費に当てる姿をたびたび目撃、これが賢治の人間形成に大きく影響したと見られる。 明治36年(1903年)、FX に入学。エクストル・マロの『家なき子』などの童話を好み、石や昆虫を採集し、綴り方に長じていた。鉱物採集に熱中し、家人から「石っこ賢さん」や「石こ賢さん」と呼ばれる。父と有志が始めた「我信念」と題する仏教講話に参加。 明治42年(1909年)、旧制盛岡中学(現盛岡第一高等学校)に入学、寄宿舎「自彊(じきょう)寮」に入寮。鉱物採集に熱中。「HELP」のあだ名がつく。岩手山をはじめ、山登りにも熱中する。哲学書を愛読。在学中に短歌の創作を始める(学校の先輩である石川啄木の影響が推測されている)。家庭の方針で進学の見込みがほぼなかったためか、教師への反抗的態度をみせ、大正2年(1913年)、寄宿舎の新舎監排訴の動きにより退寮となり、盛岡の寺院に下宿する。 大正3年(1914年)、盛岡中学卒業。肥厚性鼻炎を患い、盛岡の岩手病院(現・岩手医科大学付属病院)に入院。このとき、看護婦に恋心を抱くが片思いに終わる。また看病していた父も病に倒れて父子共々入院することになった。退院後自宅で店番などするが、その生気の無い様子を憂慮した両親が上級学校への進学を許可する。同時期に、島地大等訳『漢和対照妙法蓮華経』を読み、体が震えるほどの感銘を受ける。 大正4年(1915年)、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に首席で入学。関豊太郎教授の指導の下で地質調査研究をする。大正6年(1917年)、小菅健吉、保阪嘉内、河本義行と同人誌『アザリア』を創刊。短歌・小文などを発表する。 大正7年(1918年)、3月、得業論文『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』を提出し卒業。4月、研究生となる。徴兵検査の結果、第二乙種で兵役免除となる。この間、『アザリア』同人の保阪嘉内が同誌に掲載した文章が原因で退学となり、以後数年間に渡って保阪との親交を深める。家族の証言等からこの年から童話の創作が始まったと推定される。 大正8年(1919年)、前年末に日本女子大学校生の妹トシが病気となり母とともに東京で看病する。この滞京中に友人宅で萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に出会い感銘を受ける。また、東京での人造宝石の製造販売事業を計画するが、父の反対にあう。トシ回復とともに岩手に戻る。 大正9年(1920年)、研究生を卒業。関教授からの助教授推薦の話を辞退。10月国柱会に入信。自宅で店番をしながら、信仰や職業をめぐって父と口論する日々が続く。保阪嘉内には国柱会の入信を手紙で強く勧めたが、宗教では貧しい農民を救済できない とする日経225 に、信仰の「観念性」を徹底的に論破され決裂(7月18日)。 大正10年(1921年)、1月23日家族に無断で上京し鶯谷の国柱会館を訪問。本郷菊坂町に下宿する。学生向けの謄写版制作の職に就きながら、盛んに童話の創作をおこなう。また、国柱会の街頭布教にも参加。夏にトシ発病のため岩手に帰る。11月、稗貫農学校(のちに花巻農学校、現花巻農業高等学校)教師となる。翌年11月にトシ病死。 大正12年(1923年)、8月、教え子の就職斡旋の名目で樺太を訪問。その真の目的は妹トシの魂との交感を求める旅行であった。この旅行をモチーフとした多くの詩を作る。 大正13年(1924年)、4月、心象スケッチ『外国為替 』を自費出版。辻潤が同詩集を賞賛。農学校生徒と演劇を上演、一般公開。12月、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』を刊行。 大正14年(1924年)、7月から草野心平と書簡を通じた親交を開始。草野編集の文芸誌『銅鑼』に詩を発表。12月、花巻の北上川で発見したバタグルミ(クルミの古種)化石の学術調査(東北帝国大学・早坂一郎教授)に協力。翌年発表された早坂の学術論文にて名前を挙げて感謝の意が記載される。 大正15年(1926年)、3月末で農学校を退職。羅須地人協会を設立し、農民芸術を説いた。12月に上京し、タイピングやエスペラント、オルガンやセロを習う。このとき、フィンランド公使ラムステットの講演に参加し、ラムステットと会話を交わした。またヒューマニストとして労働農民党の岩手県での有力献金者であった。以降、農業指導に奔走。 昭和2年(1927年)、2月、羅須地人協会の活動に関して警察の聴取を受けたことから協会の活動を停止。花巻温泉に勤めていた教え子を通して、温泉の遊園地に自らがデザインした花壇を造成する。 昭和3年(1928年)、6月、農業指導のため伊豆大島の伊藤七雄を訪問。この旅行を題材にした詩群『三原三部』『東京』を制作。夏、農業指導の過労から病臥し、秋に急性肺炎を発症。以後約2年間はほぼ実家での療養生活となる。この間、療養生活を綴った詩群『疾中』などを創作。 昭和6年(1931年)、病気から回復の兆しを見せ、東山町(現在の一関市)の外国為替証拠金取引 となり石灰肥料の宣伝販売を担当。9月、農閑期の商品として壁材のセールスに出向いた東京で病に倒れ、帰郷して再び療養生活に入る。その傍ら文語詩を初めとする創作活動もおこなった。11月3日、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留める。 昭和8年(1933年)9月21日に急性肺炎で死去した。享年37。法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。生涯、独身であった。死の前日農民に夜遅くまで肥料の相談を受けていたという。戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある、国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められている。