リトアニアリタス

ダイアナ・ウィン・ジョーンズ(Diana Wynne Jones、1934年8月16日 - )は、ロンドン生まれのイギリスのファンタジー作家。一部のファンたちの間では、「DWJ」と略されることもある。魔法をテーマとした子ども向けのファンタジー小説を得意とする。 1934年、イギリス・ロンドンで寄宿学校を経営していた両親の間に生まれる。子どものときから古典に親しみ、英雄がほとんどが男性で、女性がいつも受身であることに歯がゆさを覚えたという。オックスフォード大学では、J・R・R・トールキンやC・S・ルイスに師事した。 大学卒業と同時に結婚、3児の母になる。子育て中にファンタジーを書き始め、独創的なファンタジーを数多く発表。宮崎駿監督のスタジオ・ジブリによって『ハウルの動く城』が映画化されたことに伴い、日本でも最近人気があがってきている。ちなみに本人もかなりのジブリファンである。 これは同一の主人公の登場するものではなく、「大魔法使いクレストマンシー」とは役職名であり、いくつも存在する平行世界の各々で発生する魔法に関連した事件を解決するのが主な仕事である。舞台となる世界や主人公は毎回異なっており、連作といった趣が強い。全シリーズを通して、基本的にクレストマンシーを勤めているのはクリストファー・チャントである(「クリストファーの魔法の旅」のみクリストファーの少年時代の物語)。 「魔女と暮らせば」には、徳間書店とは別の出版社(偕成社)から発行されている「魔女集会通り26番地」の邦題(掛川恭子訳)もある。尚こちらは作者名が「ディアナ・ウィン・ジョーンズ」と表記されている。 クラーク・アシュトン・スミス(Clark Ashton Smith,1893年1月13日 - 1961年8月14日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロングバレー生まれのファンタジー作家。怪奇幻想小説家。詩人。 超未来の大陸ゾシーク(Zothique) や超古代の大陸ハイパーボリア(Hyperborea)を舞台にした連作短編シリーズが有名。 ハワード・フィリップ・ラブクラフトやロバート・E・ハワードとの親交も厚く、『魔神ツァソグアの神殿』や『魔道士エイボン』、『ウボ=サスラ』などのクトゥルフ神話作品も執筆している。 ウィリアム・トマス・ベックフォードと並び、性愛を基調とする極めて視覚的な耽美世界を創出した。 ロード・ダンセイニ(Lord Dunsany 1878年7月24日~1957年10月25日)は、本名をエドワード・ジョン・モアトン・ドラックス・プランケット、18代ダンセイニ男爵(Edward John Moreton Drax Plunkett, 18th Baron Dunsany)と言う。アイルランド出身のファンタジー小説家、詩人、戯曲家。ダブリン北側のミーズ州にお城を持っている名門貴族。イートンとサンドハーストに学び、ボーア戦争と第一次世界大戦に出征した。「ペガーナの神々」を代表とする6冊の初期短編集と長編「エルフランドの王女」によって20世紀のファンタジーに決定的な影響力を与えた。ウィリアム・バトラー・イェイツに誘われてアイルランド演劇運動のために一幕劇「光の門」を書き、劇作家としての履歴をスタートさせた。彼の戯曲作品はアメリカで大変な人気となり、ブロードウェイでは5つの作品が同時に上演されるなどした。日本でも新劇運動の中での人気戯曲家で、不動産 による翻訳もある。 ラヴクラフトとその周辺作家、アーシュラ・K・ル=グィン、レイ・ブラッドベリ、稲垣足穂に大きな影響を与えた。若き日のアーサー・C・クラークと書簡をやり取りした。訳者で作家の荒俣宏の訳者で活動していた頃のペンネーム団精二(だんせいじ)の由来にもなる。 ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキン(John Ronald Reuel Tolkien 1892年1月3日 - 1973年9月2日)は英国の文献学者、作家、大学教授で、なによりも『ホビットの冒険』とその続編『FX 』の著者として知られている人物。オックスフォード大学の古英語の教授(1925年~1945年)。同大学の英語・英文学教授(1945年~1959年)。カトリック教会の敬虔なる信者。文学討論グループ「インクリングズ」の会員で、同会所属の英文学者C・S・ルイスの親友。CBE受勲者。『研究社英米文学辞典』ではトルキーンと記されており、トーキンと呼ぶ人もある。[1] トールキンの作品としては、『ホビットの冒険』、『指輪物語』に加えて『シルマリルの物語』やトールキンの死後に出版された本もある。死後に出版された本は(トールキンが残した文章を)息子のクリストファ・トールキンが編集し、ひとつに集成したもので、そこには物語、架空の歴史、人工言語、文学的試論などが含まれている(文学的試論は“アルダ” や "中つ国[2]"と呼ばれる架空の国に関するものである)。トールキンはこのような書き物の総体を “legendarium” (伝説空間、伝説体系)と呼んでいた。また、legendariumとは直接には関係は無いが、自分の子供たちに宛てた文章をまとめた児童書なども、現在では出版されている。 トールキンの父方の先祖のほとんどは職人であった。トールキン家の故郷は、現在のドイツのザクセン州にあたる。イギリスに渡ったのは18世紀ごろで、「迅速かつ熱心に、イギリス的に」なったという[3]。苗字の「Tolkien」は、ドイツ語の「FX 」(注. tollkühnは"無鉄砲"の意)を英語化したものである。あえて語源に沿って英訳するならば、dull-keen(注. 日本語では「鈍い・鋭い」)となるような語であり、あえて矛盾した語を重ねる撞着語法の言葉である[4]。 トールキンの母方の先祖として、ジョン・サフィールドおよびエディス・ジェーン・サフィールドの夫妻がおり、バーミンガムに住んでいて、市の中心に店を持っていた。サフィールド家は、1812年以来、Lamb Houseと呼ばれるビルで商売をしていた。同年以来、ウィリアム・サフィールドが、書店と文房具屋を経営していたのである。トールキンの曾祖父も前述の祖先と同じ名のジョン・サフィールドという名で、1826年から、服地と靴下を商っていた[5]。 子供時代 トールキンは、1892年1月3日にオレンジ自由国(現在は南アフリカ共和国の一部)のブルームフォンテンで、イギリスの銀行支店長アーサー・ローウェル・トールキン(1857-1896)と妻メイベル・トールキン(旧姓サフィールド) (1870-1904) の間に生まれた。1894年2月17日生まれのヒラリー・アーサー・ロウエルという弟が一人いる[6]。 アフリカに住んでいたとき、トールキンは庭で先物取引 に噛み付かれた[7]。これは、彼の物語で後に類似したことが起こる出来事である。3歳の時、母と共にイングランドに行った。当初はちょっとした親族訪問のつもりだったが、父アーサーは家族と合流する前に脳溢血で倒れてしまい、南アフリカでリューマチ熱により亡くなってしまった[8]。家族の収入が無くなってしまったので、母は彼女の両親としばらく住むためにバーミンガムに行き、1896年には(現在はホール・グリーンにある)セアホールに移った。ここは当時ウースターシャーの村で現在はバーミンガムの一部である[9]。トールキンはセアホールの水車小屋やMoseley BogやLickey Hillsの探索を楽しんだようで、この地での経験も、BromsgroveやAlcesterやAlvechurchといったウースターシャーの町や村や、おばの袋小路屋敷(Bag End)と同様、その後の作品に影響を与えたと思われる[10]。 メイベルは二人の息子たちの教育に熱心で、トールキンが熱心な生徒であったことは、家族の中で知られていた[11]。母は植物学に多くの時間を割き、息子に植物を見たり感じる楽しみを目覚めさせた。若きトールキンは、風景と木を描くのを好んだ。しかし、トールキンの好きな科目は言語に関するもので、母は早いうちからラテン語の基本を教えた[12]。その結果トールキンはラテン語を4歳までには読めるようになり、やがてすぐにすらすらと書けるようになった。彼はバーミンガムのキング・エドワード校に入学して、バッキンガム宮殿の門に掲示されたジョージ5世の戴冠式のパレードの「道順を決める」のに協力した[13]。セント・フィリップス校、そしてオックスフォード大学のエクセター学寮に進む。 1900年、母はバプテストであった親戚の猛烈な反対を押し切ってローマ・カトリックに改宗した[14]。そのため、彼女に対する全ての財政援助は中断された。その母が1904年、トールキンが12歳の時に糖尿病で亡くなった。トールキンは母が信仰の殉教者であったと思うようになった[15]。この出来事はトールキン個人のカトリックへの信仰に深い影響をもたらしたようで、トールキンの信仰がいかに敬虔で深かったかということはFX をキリスト教に改宗させた際にもよく現れている。しかし、ルイスが英国国教会を選び大いに失望することになった[16]。 孤児となったトールキンを育てたのは、バーミンガムのエッジバーストン地区にある、バーミンガムオラトリオ会のフランシス・シャヴィエル・モーガン司祭であった。司祭の庇護の下、トールキンはPerrott's Follyとエッジバーストン水道施設のビクトリア風の塔の影に住むことになった。この頃の住環境は、かれの作品に登場する様々な暗い塔のイメージの源泉となったようである。別に強い影響を与えたのは、エドワード・バーン=ジョーンズとラファエル前派のロマン主義の絵画だった。バーミンガム美術館には、大きくて世界的に有名なコレクションがあり、それを1908年頃から無料で公開していた。